くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書26章9節
私の魂は夜にあなたを慕い
私の中で霊があなたを捜し求めます。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章35節
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さんこんにちは。それぞれの場所で朝の礼拝を終えたことと思います。私が働く仙台宮城野教会でも礼拝が終わって、メッセージ動画の編集も終えてアップロードを済ませ、ローズンゲンの言葉に触れたところでした。久しぶりに暑さが戻った、皆さんが帰られて静けさのなかにある礼拝堂でキーを叩いています。午後と夜のひと時に、神の守りと祝福が皆さんとともにありますように。お祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して私が聞きたいと思ったメッセージは「神は静けさのなかでその姿を現わされる」というものでした。そのことについてつづってみたいと思います。
私たちにとって神が現臨される、つまり私たちに分かるような仕方で現れ、神としての力を発揮してくださるということに対して、どのようなイメージというものを抱いているでしょうか。究極的には神は静けさの中にも、にぎわいの中にあっても、ご自分の姿というものを私たちにわかるような仕方で現わしてくださると私は受け止めています。ですから、どちらかしかないということは決してないのです。
ただ、私たちはどうしても動的なもの、にぎやかなもの、元気なものが分かりやすいという理解があるかもしれません。動いていない人よりも動いている人のほうが私たちの記憶に残りやすく、説得力や影響力もあったりするものなのです。しかし、そこに私たちが注目しすぎてしまうことは、神が静けさのなかにも現れる御方なのだという深い理解を欠落させ、失わせてしまうきらいがあるということを、決して忘れてしまってはならないのだと、今日の聖書の言葉から想わされた次第です。
夜中に魂が神を慕い求め、わが霊が神をその静けさのなかでじっくりと求めるということが、預言者イザヤの書に記されているように、私たちは誰にも妨げられることのない環境のなかで、神の言葉を介して神とじっくり向き合うことができるのです。いわゆる「デボーション」の営みとは、雑踏から離れた静けさのなかで神の現臨を肌身で感じ取り、神の言葉を我が霊に染み込ませるひと時なのだと。そう考えると、私などは礼拝堂のような空間を自宅に持っているわけですから、それはそれで本当に幸せなんだと思わされるのです。
イエスは朝早く、人々との出会いに先立って、ひとりしずかに祈りの時を持っていたことが、今日の新約聖書の言葉から読み取ることができます。イエスはそうでなかったとは思いますが、私たちが日々の生活のなかで感じる焦りやいら立ち、先行き見えない不安のなかでこそ、すべてをご存知である神との深い対話を楽しむことができるのだと。こうしてこの世の中で生きる冷静さというものを取り戻しながら、一日の持ち場へ神が遣わしてくださる。この時を大切にし続けてまいりたいと、今日の聖書の言葉から願わされた次第です。
この新しい一週間、私たちには何が待ち受けているのでしょうか。すべてを善へと導いてくださる御方の平安と祝福が、皆さんとともに、そして私自身とともにありますように。そのことを心より願いつつ、お祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿