間違えて、6月25日のローズンゲンを掲載しまいました。
削除することも考えましたが、せっかくの黙想ですので、このまま残しておきます。
まことに失礼いたしました。
くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
削除することも考えましたが、せっかくの黙想ですので、このまま残しておきます。
まことに失礼いたしました。
くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記4章10節
民を私のもとに集めなさい。私の言葉を聞かせよう。この地上で生きているかぎり、彼らは私を畏れることを学び、それを子らにも教えるだろう。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二3章14~15節
あなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
幾分か涼しい朝を迎えました。暑さゆえに寝苦しさを感じておられる皆さんの健康が今日も守られますように、心からお祈りします。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の言葉を継承することの大切さ」というものでした。そのことを黙想したいと思います。
今日の旧約聖書の言葉は、出エジプトにおける長い旅路を終えようとしているイスラエルの民に対して、神が指導者モーセを通して語られた言葉です。これまでも神は事あるごとにそのことを伝え続けてきましたが、今ここで確認するように、再度モーセを通して民たちに語られました。これから約束の地にたどり着いて定住生活を始めようとするイスラエルの民たちに対して、何を大切にすべきなのかということを神はあらためて語られたのでした。
人間がこの地上で神から与えられた生を営むうえで、神に畏敬の念を抱くことこそが幸福への道であるということを、自分自身のみならず子へと継承させることが神の願いであり、この地に神の民が満ちあふれるという本来の目的にかなうことなのだということを、神は一貫して民たちに投げかけられました。神に対する畏敬は、決して強制的なものではありませんし、無理やりそうするようにと命じられているものでもありません。そうではなくて、神が人間を取り扱われる際に、つねに神御自身が人間をこよなく愛し、大切にしておられるというさまざまな出来事を通してこそ、人の心にあふれ出る思いこそが「畏敬」という言葉に集約されるのでしょう。
信仰の継承ということが叫ばれるのと同時に「二世問題」という言葉が、キリスト教会のなかにも広がっているような気がしてなりません。親が子に信仰を伝えるときに、どのような伝え方をするかということを、私たちは立ち止まって見つめ、ときに軌道修正をしなければならないこともあるでしょう。子をいらだたせることなく、神の姿を自分自身の生きる土台とすることができるようにアプローチできているだろうか?これは親が子に対するアプローチのみならず、教会という現場で神の御言葉を伝えることを務めとする私のような者にも突きつけられている課題なのだということを思わされるのです。
パウロの若き同労者であったテモテも、幼い頃から祖母ロイスと母エウニケの信仰的な影響を多分に受けつつ、その信仰を継承した人物です。それはとても良質のものであったことは、今日の新約聖書の言葉からも明らかです。その良い感化が現在のテモテの生き方を示していることを、この手紙の筆者であるパウロは喜んでいることが分かります。そして、この継承されたものこそ、テモテをひとりの伝道者として育む土台となっていることをあらためてパウロはテモテに示そうしており、この良いものにとどまり続けることの幸いについて述べているのです。
私たちは何をもって、良いものを次の世代を担う方々に継承することができるのだろうか。私も周囲からはまだ若いと言われても、もう来年50歳を迎える者となります。私が幼い頃、50歳と言えば決して若いとは思えない世代でした。このイメージは今の若い人が私のような者を見る時に感じるそれと同じだと思うのです。だからこそ、私自身も継承するという言葉が決して自分には関係のないものだというところから離れて、決して他者をいらだたせることなく、継承の担い手として畏敬に値する神の姿というものを生き方で表していきたいと思わされた次第です。
今日も皆さんにとって、そして自分にとって良い一日でありますように。神の守りと祝福をあらためてお祈りします。
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