10/07/2025

2025.7.10(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば(再掲です)

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
レビ記22章31節
私の戒めを守り行いなさい。私は主である。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章23節
私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、こんにちは。
朝に皆さんへお届けしたローズンゲン黙想ですが、私の大きなミスで、2週間前の木曜日(6月26日)のローズンゲンに示された聖句で黙想をしてしまいました。毎日読んでくださっている方からのご指摘があって、気づかされた次第です。このような失態をたびたびしてしまいますが、助けがあることに感謝しつつ、あらためて本日のローズンゲンに示された聖句を通して黙想を得たいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神である主の言葉を大切にする」です。とてもシンプルな言葉ですが、シンプルであればあるほど奥の深さを感じ取りたい。そこにこそ、神の言葉の味わい深さというものを見い出したいのです。
 
今日の午前中は、私が働く仙台宮城野教会の定例集会でした。去る日曜の礼拝で読まれた聖書の言葉をもう一度読み味わい、礼拝メッセージで扱いきれなかったことを解説して、その恵みを分かち合うひと時を持っています。先日の聖書メッセージはマタイによる福音書の「山上の説教」の一箇所だったのですが、ある参加者の方がおっしゃっておられたことがとても印象的でした。
 
「山上の説教は何度も読んでいる聖書箇所だし、どちらかというとうんうんと読んでしまうようなところだけど、『イエスの視点』からあらためて読み直すと、こんなにも味わい深いものとなるのですね」というコメントでした。
 
この世の中でまかり通っている価値観に合わせて、私たちは自分自身の文脈で聖書の言葉に触れます。それは当たり前のことなのですが、私たちはあらためて、この言葉を語られたイエスがどのような思いをもってこのような言葉を人々に向けて語られたのかというところに、自分自身の思いを寄せて考えたときにこそ、シンプルな言葉のなかにも実はとても味わい深いメッセージだったのだということに気付かされるのだと。この営みこそ、神の言葉を守る、つまり大切にすることが可能にさせられるのだと思うのです。
 
守るとは、何か規則を遵守することももちろん意味としてあるわけですが、機械的に守るだけでは、あまり意味がないと私は考えるのです。守るとは「大切にすること」なのだと。大切にする過程のなかには、私たちの心が問われていくのだと思うのです。私たちはよく「礼拝を守る」という言葉を用いることがありますが、私は「なぜ礼拝を『守る』のだろうか」とずっと思っていたのです。しかし、守るという言葉の根底にある「大切にする」という言葉に置き換えるならば、とても納得のいくものとなったのです。「礼拝を大切にする」。なるほど!と。
 
そして、神の言葉を大切にすることは、神の愛を大切にすることに相通ずるのだと。神の愛とは何かということに思いを寄せつつ、その意味を問いながら、自分自身の心に浸みこませようとしたときに、そこには大きな幸いがあることを心から望みたいのです。
 
私の間違いから今日二度も黙想をつづれたことを感謝しつつ、皆さんの一切に神の守りと祝福がありますように。心からお祈りします。

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