16/06/2025

2025.6.16(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言15章1節
柔らかな受け答えは憤りを鎮め
傷つける言葉は怒りをあおる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章13節
キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの教会や集会で、主の日の礼拝を通していのちの祝福を味わう機会が与えられたのではないかと思います。私も午前は近隣の教会で、午後は代務牧師を務める教会で、それぞれ喜びをいただくことができました。ここのところ身体は疲れていますが、健全な心が宿るところには健全な選択と行動ができることを心から信じ、神の喜びとともに歩むウィークデイでありたいと心から願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「健全な言葉」についてです。父・子・聖霊なる三位一体の神が、私たちひとりひとりの人生の日々を守り、祝福されるときに、私たちの口から発する言葉も神の御心にふさわしい健全な言葉を紡ぐことができるのだということを、今日の聖句は私たちに伝えているような気がしてなりません。
 
昔から、いわゆる「信仰に熱い」方々がご自分の信仰をあらゆる方法を通して表現することがあるのを、皆さんはよくご存知であると思います。最近ではSNS界隈でそのような表現がなされることが多いわけですが、インターネットを介したそのような自己表現は、私たちがまったく会ったこともない人間であったとしても、その存在がぐんと身近になっているような気がしています。もちろんそのような表現として、従来の書籍や雑誌、テレビやラジオなどの媒体が今でも用いられているわけですが、インターネット媒体は、より多くの情報をより簡単に入手できる手段としてひろく用いられているのは、皆さんもご存知の通りかと思います。
 
しかし、どのような媒体を用いてもそうなのですが、そこには必ず「倫理」がともなうということを、私たちは決して忘れてはならないのだと感じています。私は常々感じていることなのではあるのですが、インターネットが市民権を得て、誰もが利用したり自己表現ができているなかで、意外にも「インターネットの倫理」について学び、理解する機会が少ないとということをあらためて思わされるのです。特に、キリスト者が自分自身の信仰観をもってインターネットを用いて自己表現する時に、今日のローズンゲンに示されているような言葉に裏打ちされた倫理観というものを大切にしているのだろうか。そんなことを自戒を込めつつ、考えさせられるのです。
 
あまりにも挑発的かつ挑戦的な発言や、事実に基づかない話題、他者を貶めるような発言というものを、自分の信仰観にもとづいてインターネットという公器に載せて広げようとするならば、それは本当に神がお望みなことなのだろうかと、その御心を問い直すことも必要なのだと私は感じています。もし対面では控えているようなことを、インターネットでは平気に行っているならば、それは器の用い方の誤用としか言いようがないのだと私は感じます。何をするにしても、私たちは聖書の一部分だけを取り出しては自分自身を正当化することのないように、今日の聖書の言葉を通して、神と対話しつつ自己省察したいものです。
 
私たちの発する言葉が、神の栄光を指し示し、イエス・キリストにある信仰と愛が満ちあふれるものとなりますように。そのことが私たちの生活を豊かなものとしますように。祈りつつ今日の残りの時間も過ごしてまいりたいと思います。皆さんのことをも想いつつ、心よりお祈りします。

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