17/06/2025

2025.6.17(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記46章3~4節
私は神、あなたの父の神である。私はあなたと共にエジプトへ下り、また必ずあなたを導き上る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章28~30節
ペトロが、「このとおり、私たちは自分の物を捨てて、あなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「よく言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は誰でもこの世でその何倍もの報いを受け、来るべき世で永遠の命を受ける。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちの不安を不安のままにはしておかれない」というものでした。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、読み方に注意を払いたいと私がいつも思っている聖句です。誠実に日々を生きていたある者がイエスに、永遠の命を得るには何をしたらよいかを尋ねました。その人は律法の言葉を言葉通りに守っていたことをイエスに告白しますが、イエスはその人にとってチャレンジとなることを提示します。自分の財産を経済的に困窮している人のためにすべて用いなさいというものでした。
 
その結果、その議員はその場を去ってしまいます。チャレンジとされていることを自分のものとすることができませんでした。そのようなやり取りのあとで、神の国の価値観に生きることの難しさを告げたのち、今日の聖書の言葉に示されたことを弟子たちに告げたのでした。
 
私はこの聖書の言葉に聴くときに、聖書の言葉をその言葉の通りに読み、それを受け入れ、それを自分自身の生き方とする場合、それを文字面だけでとらえるのではなく、やはりその言葉に示された「本質」というものに、いかに自分自身の心や目、耳というものを傾けることができるのかというところにこそ、御言葉を神の御言葉として受け入れられる絶対不可欠のものと考えています。つまり「なぜを問う」という営みを大切にすることです。
 
心のともなわない言葉は、言葉だけが独り歩きします。その言葉が武器や凶器となることだってあるのです。私がこのルカ福音書の聖句に注意を払いたいと言ったのは、この言葉を用いてささげることを強要し、多くの金銭的被害をもたらしたキリスト教系宗教団体、また教会の存在が後を絶たないことを知っているからです。私は思うのです。なぜを問い、神との深い対話を何にも邪魔されずにおこなった結論として、自分自身に対する神からのチャレンジを受け入れたところにこそ、はじめて祝福というものを味わえるのだと。
 
誰かから宗教的なアプローチを経て、その意味を考えることなく行動を行うというところには、多くの危険が伴います。まさに不安を抱えたままその不安に対する神へのまことなる信頼が失われたまま、私たちは誤導させられることがあるということを考えたいのです。この誠実な議員はそのことが足りなかったのでした。
 
私たちの不安を不安のままにしておかれない神が、他の何者もの介入の邪魔を許さず、私たち一人ひとりをご自分の道へと導いてくださるのです。そのためにも、私たちは神が語り掛ける御声というものを、聖書と聖霊という両輪の助けを通して、その本質を問い続けて、神に信頼を置くいしずえとしたいと心から願いつつ今日という日を歩みたい。これが私の得た黙想でした。皆さんを必ず祝福してくださる神が、今日も私たちにチャレンジを与えてくださる。そのことに心を寄せつつ生きることができますように。皆さんの主にある祝福が豊かにありますように。お祈りします。

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