くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書7章9節
真実の裁きを行い
互いに慈しみ、憐れみ合え。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章24~25節
主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。もしかすると、神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。今日、世界中の教会や集会でおこなわれる主の日の祝祭が豊かなものでありますように。心からそのことを願い、祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴いてまいりたいと思います。
今日示されたふたつの聖句を通して受け止めたいと思ったことは「私たちを敵と思う人がいたとしても、私が敵と思う必要はない」ということです。そのことを、今日の新約聖書である「テモテへの手紙」の一節は私たちに伝えています。
テモテへの手紙は、使徒パウロが年若き伝道者であるテモテに対して、自分の持っている大切なことを伝えようとのコンセプトで書かれたものです。パウロによる真筆かどうかという議論はありますが、今日はその話題は置いておいて、この時代にイエスを救い主として伝えることがどういった状況のなかでなされていたのかということを知るうえで、この手紙は私たちに理解を与えるのです。
では、どのような状況かと言えば、パウロやテモテのような伝道者を「敵」とみなす人々が多かった、ということです。イエスに対しても彼を敵と思っている人がいたように、神による真実の言葉を伝え分かち合うというのは、常にチャレンジが求められているのだとつくづく思わされます。そのようななかでパウロは、歳若く将来性のある同労者テモテに対して、伝道者の心構えについて知らせようとするのです。
自分を敵と思っている相手に対して、こちらが敵と思う必要はないのです。今日の聖句に示されているエッセンスとはこのような姿勢なのです。神を敵と思う悪魔サタンによって人々はその餌食にされている。実は敵と思ってもおかしくないような自分へ憎悪の念を抱いている人たちもまた「犠牲者」であることを、私たちは忘れてはいけないのです。
だからこそ、神が私たちに教え、伝え、示されたことによって芽生えた「愛と平和」をもって、まず私たち自身が生きることが大切なのです。敵に向き合うことに己を集中させると、もちろん成果はあるかもしれませんが、心により一層の疲労をもたらすかもしれません。まず自分自身が神によって喜びをいただいていることで、私たちは心が安心感を抱くようになり、この安心から来る穏やかさをもって、どんな人にも接してくことが最終的に神の良いものがいわゆる敵の人生をも変えていくのだということを、パウロはテモテに伝えたかったのでしょう。
もちろん、そうすることで自分の身に危険が及ぶこともあります。その時には柔和な心をもって神にとりなしの祈りをすれば良いのだと私は考えています。それがどのような行動に至ろうとも、大切なのは敵視に敵視をもって応答しないという姿勢を神の導きと助けによって得るということなのです。これが「主の慈しみに生きる姿勢」であり、私自身も福音を宣べ伝える者として、このことを大切にしつつ、新しい一週間を歩みたいと心から願わされました。
どうぞ、皆さんの新しい一週間とその先駆けとなる今日の一日が、主の慈しみを存分に受ける時となりますように。心からお祈りします。
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