くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記3章6節
女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章17節
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。今週の日々の歩みを振り返りつつ、明日への備えとして、今日もローズンゲンに示されたふたつの御言葉を通して黙想を得たいと思います。
私は、今日の聖句を通して、特に新約聖書・ヨハネの手紙に記された「神の御心を行う者」について黙想を深めていきたいと思わされました。そのことを踏まえると、今日の旧約聖書の言葉である創世記に記されていることが、いかに私たち人間の根底に流れている思いだろうと思わされたのでした。
創世記3章に描かれていることは、神によって食べることを禁じられていた「善悪と知識の木の実」をめぐって、人間と蛇に扮した悪魔サタンとのやり取りについてです。神の御心はこの実を食べないという選択を人間がすることでした。しかし、蛇のそそのかしによって人間の心は揺れ動きます。蛇のアプローチは神の告げていたこととは真逆でした。「食べるに良く、目には美しく、また、賢くなる」という情報を、人間は得ていたのです。
この情報は、人間の心を魅了させます。そして「好ましく思えた」と聖書はそのときの人間の思いを書き記しています。これは誰にとって好ましいことなのか。それは明らかに人間自身にとってでした。私にとって好ましいこととはいったい何か。この選択が人間に迫られていたのですが、しかし感情には逆らえない人間の姿というものが率直に書き記されているのです。
感情には逆らえない。
私たちが日常の生活のなかで、ごく普通に経験することでしょう。神によって「互いに愛し合いなさい」と言われても、どうしても許せない、愛せない、自分のうちから起こる憎悪の念がふつふつと沸き起こるということが、私たちの人間関係に起きてくることはないでしょうか。理性ではそれではいけないのだということが分かっていても、憎しみという感情には逆らえない。私も正直に申し上げれば、そういうことがしばしば起きてくることがあります。そういう時にこそ、私自身のうちに神と同調していないという自分自身を見つけては、そのことに嫌気がさしてしまうということがあるのです。
だからこそ、そういった思いをすべてご存知である神にどうやって向き合っていけばよいのだろうかということに、自分の思いを募り、神に自分自身を申し開き、打ち明けては自分自身の感情と理性のはざまで揺れ動く自分自身というものを実感するのかもしれません。いわゆる「罪の深さ」というものに落ち込んでみたり、いや、自分自身の正しさを貫きたいと思うこともあるでしょう。これが人間自身の偽らざる現実と姿なのだと私は思うのです。
私たちにとって大切なのは、明らかに神の御心にともなわないであろう自分の感情を神の御心にすり替えて、それをさも神が自分の感情を是認しているのだということは、やはり神の御心ではない、という認識であると私は受け止め続けたいのです。それが、今日の新約聖書で語られている「世も世の欲も」という言葉の真意なのでしょう。欲なのです。私自身の欲求なのです。善悪の知識の木の実を食べることで「神のようになれる」とは、まさに自分の感情を神の御心とするすり替えによって起きることを、私たちは忘れてはいけないのだと思うのです。
だからこそ、神の御心とは何かということを丹念に、謙虚な思いをもって見つめていくことの大切さを想わされるのです。神の御心を行うというのは、行動が先にありきなのではなく、そもそも神の御心と自分の感情を比べながら、そこにそもそものズレはないだろうかということを黙想を通して、神と対話するところから始まるのでしょう。神に与えられる永遠のいのちとは、そういう神との健全かつ濃厚なつながりを自覚することによって、自分自身に与えられているのだという幸いと喜びへと導かれる。そんなことを受け止めたいと思わされたのでした。
そんな一週間の最終日が幸いに包まれますように。明日への備えの一日を心からお祈りします。
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