24/05/2025

2025.5.24(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記上8章39節
ああなただけが、すべての人の心をご存じです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章47~48節
イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうして私を知っておられるのですか」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて35日目を迎えました。そして、今週も最終日を迎えました。この1週間にあった様々な出来事を想い起こしながら、明日への備えとなるひと日を過ごすことができますようにと願いつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちが神のことを知らなくても、神は私たちのことをすべてご存知である」ということです。私たちのことを知っていてくださる神の存在を、私たちは「恐怖」をもって受け入れるでしょうか。それとも「安心」をもって受けいれることができるのでしょうか。そんなことを考えました。
 
自分のうちに何かやましいものを抱えたときに、もしそれが知られてしまうことの恐れというものが私たちのうちにはあるかもしれません。幼い頃、何か悪いことをしたときに親からそのことがばれてしまったときに、親に叱られるかもしれないとビクビクしたことを思い出しました。そうして必死に隠し通すのですが、結局のところ親にそのことが知られてしまい、叱られてしまうのです。
 
こういうことを通して、隠し事をするのはやめようと思うことがあれば、もしくは隠し通せるようにしっかりと守りを固めようと思うこともあるかもしれません。こうして自分自身を守るという「大人の知恵」というものが、自分自身のうちに身についているかもしれない。そのように私自身のことを振り返りながら思わされたのです。
 
もちろん、何か隠し事をすることのなかには、相手を傷つけ舞という優しさから来ることもありますので、その出来事そのもの自体がすべて悪ということもないのかもしれませんが、自分自身にとって不利になるような出来事に対して、それを隠蔽するようなことがあっても、結局のところ神はそんな自分をすべてご存知であるというのです。良いことにしても悪いことにしてもです。
 
私は神にすべてを知られているということを恐怖ではなく、安心をもって受け入れたいと改めて思わされたのです。神は私たちのすべてをご存知なうえで、ではそんな私たちに対してご自分の良いものをもって、何を教え、導き、平安と喜びというものを与えてくださるのかというところに、心からの期待を寄せることができるからです。少しは痛みを経験することもあるかもしれません。それは自業自得とも言えるでしょう。しかし、そのような痛みや失敗というものを通して、なおも私たちに大切なことをご自分の慈愛で教え諭してくださる神がともにいてくださるのであれば、それは結果的に自分自身の安心に導かれるのだと私は信じたいのです。
 
これが誠実に私たちを取り扱ってくださる神に対する、私たちの真摯な応答なのだと。そんなことを胸にして、今日の一日を歩んで行きたいと願わされました。皆さんにとってもこの一日が、神の守りと平安に満たされた経験となることができますように。心からお祈りします。

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