23/05/2025

2025.5.23(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章8節
私は地の果てから呼び集める。
その中には目の見えない人も、足の不自由な人も
身ごもった女も、臨月の女も共にいる。
大いなる集団がここへ帰って来る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章21節
すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて34日目を迎えました。今日は午前は近隣大学での礼拝メッセージが、そしてお昼からは教会メンバーの葬儀が執り行われます。一切にご自分の言葉を通して私たちを守り、祝福を与えてくださる神がともにおられることを信じつつ、ひとつひとつのことに誠実でありたいと心から願わされます。今日のローズンゲンに示された御言葉に、耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は招こうを思われた者を誰でも呼び集めてくださる」ということです。特にこれらの聖句に共通するのは「目の見えない者、足の不自由な者」という言葉ですが、それらの表現に象徴される、いわゆる差しさわりを抱えた方々をも、いや、だからこそ神はご自分の民として大切にされるのだということを、私は受け止めたいと思ったのです。
 
今でこそ、さまざまな差しさわりを抱えられた方に対する社会的な理解が浸透されているなかですが、それでも社会からつまはじかれている現実があることも事実であると私は考えています。私自身も何らかの差しさわりを抱えて生きていると自認しますし、自分には当てはまらないと思う人に対して不寛容な態度を知らぬ間に示しているのだとも痛感しています。そういう意味で言えば、どんな者でもその御手で招かれ、私たちを抱えてくださる神がおられるということだけで、どれだけ安心できるかということを想わされるのです。
 
そのような神がおられるということを通して、自分自身のあり様というものをも見つめる機会をいただいたと、今日の聖句を通して想わされたのも事実です。神の招きを人間が阻止したりするようなことがもしあるならば、私たちの側に猛省し、神とともに歩む幸いが他者にどのように向けられることが、神の御心に沿った生き方なのかということをつくづく考えさせられたのです。
 
私たちを招かれる神がどのような御方なのかということを、神の言葉を通して知る幸いというものを噛みしめつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの主にある幸いを心から願いつつ、そのことをお祈りしたいと思います。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

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