くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記1章5節
私はあなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章16節
すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて13日目を迎えました。今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から、黙想をつづりたいと思います。
今日選ばれた旧約聖書の言葉は、モーセに代わってエジプト脱出から神が示された約束の地へとイスラエルの人々を導くリーダーとなったヨシュアに対して、神が語られた言葉です。神は先の指導者であったモーセを見放すことも見捨てることもなさいませんでした。神がその心に決められたことは必ず果たされるという姿勢を、ヨシュアに対して示された。今日の言葉はそのことの確認とも言えるでしょう。
ヨシュアはこの言葉を胸に、ヨルダン川を渡り向こう岸であるカナン地方にたどり着いた後も、幾多の困難が彼とイスラエルの民を襲おうとも、神の言葉を根拠として約束の土地を一歩、また一歩踏みしめて神の約束というものを実感したのでした。神がかつて、のちにイスラエルと改名したヤコブに対して、私はあなたを決して見捨てないと約束されたように(創世記28章15節)、その約束はあらゆる神の民を継承し続けて今日に至っていることを考えれば、それは本当に感謝にあふれる出来事なのだと思えてならないのです。
イスラエルはその後何度も、神に背を向けて歩もうとします。神とともに歩んでいると豪語しながらも、神の御心に沿わないことを繰り返し続けてきた歴史がありました。それは現在にいたるまで、神と私たちとの関係史を物語ることなのだと私は思っています。私たちはしばしば思い違いをする存在だからです。にもかかわらず、神は私たちを見放さない、見捨てないという思いを、あらゆる仕方で私たちに示されることによって、私たちに「気づき」というものを与えて来られたのだと思うからこそ、それは感謝に満ちあふれる出来事なのだと言えると私は思っています。
神が私たち人間に対してそのような姿勢を保持しておられることが、私たちの目に見えるかたちでなされたひとつとして、救い主イエスの洗礼がありました。本来、神に背を向けてきたイスラエルの民が再び神とともに歩むためのしるしとして、洗礼者ヨハネによる洗礼がおこなわれてきました。そのなかで、あえて洗礼を受ける必要がないイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるということには、大きな意味があったのです。洗礼者ヨハネは自分から洗礼をイエスが受けることについて、それは恐れ多いことだと固辞しようとしましたが、イエスは洗礼を受けられることをまったくいとわなかったのです。
イエスはご自分の洗礼を通して、神につながれて再び生きることができるのだということを人々に示されるために、自ら洗礼を受けるという行為をされたのだと私は考えます。洗礼を通して、再生の道を神は与えてくださる。まさにここにこそ、その後のイエスの御復活が示す「再生」に相通じるのだと私は思いました。洗礼の出来事というのは復活の先取りを意味しているのだと。そして、イエスが洗礼を受けられた時に天が開き、聖霊がイエスのもとに降られることによって、神がイエスを見放さない、見捨てないことを明らかに私たちに対して示してくださったのだと受け止めたいのです。
繰り返しになりますが、神が私たち人間を見放さない、見捨てないということをあきらめず、私たちに再生の道を与えてくださったことを思いに留めつつ、今日の一日を生きることができますように。皆さんのことを神である主が守り、祝してくださいますように。お祈りします。
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