01/05/2025

2025.5.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書4章34節(口語訳聖書・新改訳聖書は4章37節)
その御業はすべて真実であり、その道は正しく、高ぶって歩む者は低くされる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書15章39節
イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活から数えて12日目を迎えました。今日もイエスが死者のなかからご復活されたことの意味を問いながら、ローズンゲンに示された御言葉を前に黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉はダニエル書4章の最終節でした。この章のあらすじを簡単に説明しますと、バビロニアの王であったネブカドネツァルがある時に観た夢がとても恐ろしいものであったことからこの話は始まります。あまりの夢見の悪さを経験した王は、その解き明かしをあらゆる人物に頼みますが、誰も解き明かしてくれません。そこで登場するのがダニエルでした。
 
ネブカドネツァルにとっては、ダニエルが偉大な神によって守られていることに一目置いていました。偶像崇拝に満ちあふれていたバビロニア帝国でしたが、ダニエルの誠実さは神の正しさから由来していることを認めていたのです。だからこそ、ダニエルの神がダニエルを通して自分自身に語ったことを最終的には受け入れ、彼の治世はますます豊かになったという話が収められています。
 
王は自分自身を振り返り、神の御業に込められた正しさによって歩むならば「高ぶって歩む者は低くされる」と告白しました。ここで「高ぶる」と訳されている言葉はヘブライ語の「ゲワー」という言葉が用いられています。自己の思考や能力に陶酔するあまり、他者や神までも見下す態度のことを指しています。「傲慢」という言葉でも表現できるものです。また「低くされる」と訳されている言葉はヘブライ語の「シェフェル」という言葉が用いられており、文字通り低くされる・卑しめられるという言葉もありますが、傲慢の対義語としての「謙遜」という言葉を指す意味の言葉としても用いられています。
 
ですから、この言葉は「傲慢な者は自分自身が卑しめられることで謙遜にさせられる」と解することのできると私は思ったのです。前述の通り、ネブカドネツァルは神がダニエルを通して語られた言葉を、彼自身が卑しめられる経験を通して、自らを低めて受け入れました。自分自身の驕り高ぶりを自覚することで自分自身が謙遜に生きることの大切さを学んだと言えるでしょう。
 
私はこのように受け止めたいと思いました。人間は自分自身の驕り高ぶりというものを何かの機会で気付かされることで、はじめてそこからいろいろなことを学び取ることができるのだと。その学んだことを通して今後の幸いにつなぐことができるのだと。これこそ、復活が指し示す喜びのメッセージそのものなのだと思うのです。失敗は決して無駄なものではないのだということです。失敗を失敗として片づけてしまうのであれば、そこにすべてを再生へと向かわせてくださった神の恵みを感じ取ることはできないでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが十字架にかかって息を引き取ったときのことです。イエスが十字架に架けられて殺されたという出来事は、多くの人たちのつまづきとなりました。誰の目から見ても、失敗の出来事であったからです。徹底的に低められ、卑しめられたイエスの姿など、誰も見たくなかったことでしょう。
 
しかし、それを間近で見ていたローマ兵は違いました。神の御業がこの人のすべてに表れていたことを認め、そして告白しました。そして、イエスの死という失敗が死のまま終わることはありませんでした。三日の後に復活のいのちをもって私たちの前に現れてくださったのです。失敗は再生へと向かわせる一里塚なのだということを示されたのでした。
 
今日一日の歩みが、自らを振り返りつつ神のなさることに心から感謝できるような経験となることができますように。お祈りします。
 

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