くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言14章21節
友を侮る者は罪人。
苦しむ者を憐れむ人は幸い。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書17章10節
自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』と言いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんこんにちは。救い主イエスの復活から数えて10日目を迎えました。世の中ではゴールデンウィークの前半初日のところも多いと思います。私自身は午前中はゆっくりと休んで、午後からいろいろと動き出しています。黙想をお届けするのもこの時間となってしまいました。もう一日も半分を過ぎてしまっていますが、ローズンゲンを通して与えられた今日の聖句を通して、黙想をつづってみたいと思います。
今日黙想したいと思ったのは「自分に命じられている務めとはいったいなんだろうか」ということについてです。「使命」という言葉でも言い換えることができるかもしれません。神は私にどのような使命を与えておられるのだろうか。そんなことを考えるとき、私は神の思いをすべて知ることはできませんから、使命であると思い違いをして実はとんでもないことをしているのかもしれません。だからこそ、使命というものについてじっくりと考えることは、本当に大切な営みなのだと感じさせらます。
今日の新約聖書の言葉であるルカによる福音書17章の一節にあるこの言葉は、主人と奴隷の関係性を通して、奴隷に与えられた務めとはいったいなにかについてイエスが語っておられる箇所です。奴隷として当たり前のことを当たり前のように自分の使命と受け止める奴隷の姿を通してどのようなメッセージを聴くことができるのでしょうか。
奴隷の務めとは、主人を労働で支えることです。イエスはこの関係性を通して、神と私たちの関係性について問おうとしているのですが、これは読み方によっては危険な香りを漂わせる可能性のある言葉であると私は思いました。しばしばリーダーの立場である聖職者や教職者、信徒リーダーと言われる人たちがこの言葉をはき違えて、教会メンバーや家族などを信仰という名のもとに奴隷のように扱う事例が散見されます。これは明らかに聖書の誤用と言えるでしょう。
そうではなく、私たちは神との関わりのなかで、神が期待しておられることを当たり前のように行うという姿勢、行いたいと心から願う姿勢こそが大切なのだと思うのです。では、その姿勢の根幹にあるものとは何か。それが今日の箴言の言葉に記されているものであると私は受け止めました。それが「友を侮らないこと、苦しむ者に神の憐れみをもって接する」ことであると。
ここで「侮る」と訳されているヘブライ語は「ブーズ」と呼ばれる言葉ですが、相手に対して役に立たない者、取るに足らない者として軽蔑し、公然と侮辱するという意味が含まれています。友、つまり隣人に対してそのような侮辱を働く者は、神を愛し隣人を愛するという神が与えた最大の掟を踏みにじり、神に背を向けて歩むという「罪」を背負う者となることを示しているのです。そうではなく、神の憐れみを受けた者であることを受け止めつつ、その憐れみが人々に向けて働くように祈り、そして生きるこそ神が与えられた使命なのだと私は受け止めたいと思ったのです。
誰が何と言おうとも、そのことで侮辱するようなことがあったとしても、軽蔑や侮辱で好戦的に応ずるくらいならば、神が与えられた使命に生きようとすることのほうがずっと幸いなのだと。そんなことを望みつつ、時を過ごすことができますように。皆さんのすべてに神の祝福をお祈りします。
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