28/04/2025

2025.4.28(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編38編23節
急いで私を助けに来てください。
わが主、わが救いよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章40~43節
イエスは盲人にお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、また見えるようになることです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神を崇めながらイエスに従って行った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活から数えて9日目の朝を迎えました。今日もローズンゲンに示された神の御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐキーワードは「救い」です。いみじくも今は復活節の時ですから、私たちのために命の救い主となられたイエスの何が私たちにとっての救いなのかということを、じっくりと思い巡らすのにはとてもふさわしい時なのかもしれません。
 
私たちは救いという言葉をどのように用いているでしょうか。イエス・キリストという信仰をいただいて、その信仰を公に告白して、恵みのしるしとしての洗礼を受けたときに、私たちはしばしば「私は救われました」ということを言うことがあります。それは私たちの命が救われたことを意味しており、具体的には神との断絶状態が回復されることによって、究極的な死と滅びから解放されたことを指しています。つまり、キリスト教的救いとは、命と対極にある死を意識して用いられている言葉であることが理解できるのです。
 
つまり、死からの解放、具体的には不安と恐れからの解放はすべて救いへと直結するものなのだと私たちは受け止めることができます。そのことを考えれば、視覚が失われた状態、光も視界も遮られた状態は「死」を意識してもおかしくないものなのだと思うのです。ただ、そのような環境のなかで、私たちは心の視覚や視界というものは回復することは十分に可能なのだと思うのです。
 
最近、SNSで後天性の眼病によって全盲になられた女性のチャンネルをよく観ることがあります。浅井純子さんという方で、自らを「全盲おばさんじゅんじゅん」と名乗って、全盲だからこそいろんなことにチャレンジできるのだとすべてを前向きにとらえて生きている姿を動画で公開しているというものです。
 
私はこの純子さんがクリスチャンかどうかは知りませんが、物理的にモノを見ることができなかったとしても、心の視覚は十分に持つことは可能なのだということをつくづく感じさせられるなかで、ましてや主イエスの復活の出来事を知る私たちならば、いくらでも心の視覚、心の視野というものを広げるチャンスはいくらでもあると思ったのです。もちろん復活の主の助けなしにはそれはできないのですが。
 
だからこそ、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、助けてくださいと神に懇願することができるし、大いなる助けをいただいて、心の眼を大切に守っていきたいと思ったのです。そのような思いをもって、今日の一日を生きることができますように。皆さんの主にある守りと祝福を心からお祈りします。

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