くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章9節
銀を愛する者は銀に満足することがなく
財産を愛する者は利益に満足しない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一6章7~8節
私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活後6日目の朝を迎えました。主のご復活を祝うイースターから始まった一週間も、早いもので今日が最終日です。世の中でははやいところで今日からゴールデンウィークが始まりました。春を存分に楽しむことができるなかで、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を目にして、一瞬「ドキッ!」としたのは私だけでしょうか。今日の聖句で言わんとされているのは「私たちは何を大切にすることができるのか」という問いであると私は受け止めました。
今日の旧約聖書はコヘレトの言葉の一節です。何かに飽き足りることのない人間の姿とうものについて、リアルに描写されているひと言であると私は思いました。どんなに財産を持ったとしても、それが人間の満足度を充足させるものとはならないのだ。財産を持ったらその財産をもっと増やしたい、もっと、もっとと、人間はさらに上を向いて何かを満たそうと躍起になって頑張ろうとする。この世のなかではそのことを推奨しますし、教会の世界のなかでもそのことが盛んに叫ばれることもあったりするのです。
もちろん、何かが増やされていくこと自体何も悪いことではありませんし、それを神の祝福の結果と見る向きももちろんあるでしょう。しかし、ここで言わんとされているのは、果たしてそれが私たちの心の満足感につながっているだろうか、ということです。何かが多く増やされているから満足できるのでしょうか。物の大小や多少で物事の価値基準を決めるというものは、今日のコヘレトの言葉からすれば違うと断言できるのです。多いことは悪いことではないけれど、多いからと言ってそれが絶対的な満足感には必ずしも直結しない、ということなのです。
大切なことは、多かれ少なかれ、それが神の喜びであることに変わらないというこの価値観に、私たちがどれだけアーメンと呼応できるかということなのでしょう。ですから、この言葉はいたずらな「清貧」を推奨するものではないと私は考えたいのです。今日の新約聖書の言葉は、どうせ財産なんて死の向こうまで持っていくことはできないのだから、衣食があればそれに満足しようじゃないかと読むことのできる聖句ですが、だからと言って、それは最低限の生活を「しなければならない」と読むならば、それは極論であると私は思うのです。多少の多のほうを価値基準とすることが極論ならば、少ないことばかりを礼賛するような向きも同じ価値基準から来ているということなのです。
繰り返しますが、大切なのは私たちの命をはじめ、私たちの命を支えるあらゆるものは、神が与えてくださったものであるということなのです。多少ばかりにこだわる世界があるからこそ、人間による過剰な搾取が起きるのではないか。私はそのように思えてならないのです。
今日の一日もまた、神が与えてくださったものはいったい何かを指折り数えながら、一週間の歩みを振り返ることができますように。皆さんの主にある一日の祝福のためにお祈りします。
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