24/04/2025

2025.4.24(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編13編6節
私の心はあなたの救いに喜び躍ります。
主が私に報いてくださった」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書7章37節
人々はすっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活後4日目の朝を迎えました。今週はなかなか黙想をブログに打ち込む時間を取ることができず、一日おきの配信となってしまっています。楽しみにしてくださる皆さまには、本当に申し訳ありません。
 
特に何があったというわけではないのですが、ときに心が沈むことがあります。そういう時は耳にイヤホンをして散歩に出るようにします。風景をながめながら、スマホからイヤホンを通して音楽を聞いたり、聖書アプリに耳を傾けたりします。身体も適度に動くので、気持ちも紛れてとても清々しい気持ちにさせられるのです。昨晩がそうでした。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私の心に響いたのは、イエスが人の耳と口を開いたという癒しの記事です。「耳と口を開く」とはどういうことかを、あらためて黙想させられました。文字通り聴力が回復し、それによって話すということが可能となる(もちろん聴力に難があっても話をすることができる方を知っていますが、そのようなトレーニングを受けていないと発声によって話すのはやはり難しいということを聞いたことがあります)という話ですが、私自身もまた「耳や口が閉ざされている状態」というものを往々にして経験しているのではないかと思わされたのです。
 
気が沈んでいるときなんかは、よくそのような状態になるのだと痛感します。意気消沈していると、自分の殻に閉じこもって外部からのアプローチをすべてシャットアウトしてしまうのです。もちろん独りになって自分を見つめる作業というものはとても大切であるとは思いますが、そういう時に孤高の存在、悲劇の主人公のように自分自身を仕立ててしまい、神からの語りかけすら跳ねのけてしまいそうな自分自身に気付かれることがあるのです。
 
こういうときに、どうして神はご自分の言葉を私たちに授けられたのかということを考えます。それは私の心を開き、耳と口を開くためなのだということを今日の聖書の言葉を通じて再確認することができたと思っています。私は決して孤独でなく、孤高にならなくとも神がいつもご自分の言葉をもって語り掛けてくださるではないか。この語りかけに、私は胸躍らされたい。気が沈むなかでも一筋の光を照らし続けてくださる神が、今日も私を生かしてくださるのだ。そんなことを一日を生きる希望の柱にしたい、そのように思わされたのです。
 
心の耳が開かれて、神がともにおられることが幸いだと心から告白できるような一日が、気持ちを穏やかにさせ平和へと導かれていく。そんなことを想いつつ、今日を過ごすことができますように。皆さんの救い主にある守りと祝福を心からお祈りします。

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