くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章5節
その名は「驚くべき指導者、力ある神
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章19節
つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
四旬節39日目を迎えました。そして、昨夕から始まった受難の長い一日の朝を迎えました。夜が明けるこの頃、うらみとねたみに満ちあふれた宗教裁判から、イエスがローマ総督に引き渡された風景があったことを私たちは思い起こすことができるでしょう。十字架への道をただ進み行くイエスの負われたあまりにも大きな犠牲の道です。この道を一日の歩みとして、私たちもまた歩もうとしています。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句のうち、新約聖書の言葉として選ばれたのは第二コリント書の一節でした。和解という言葉がキーワードとされています。和解とは何かということをあらためて考えさせられます。本来、和解というのは「歩み寄り」がなければ成立しない言葉です。どちらか一方が和解の手を差し伸べたとしても、もう一方に和解する気持ちがなければ、絶対的に和解など無理なのだと私は思うのです。
歩み寄りをしようという気持ちよりも、自分自身の正しさが先に立ってしまうのです。その正しさを自己主張すればするほど、和解などという言葉はとても空しいものとなることを私たちはよく知っています。表向きに和解したように見えたとしても、それが傷となって残り続けるくらいならば、和解できない自分自身の姿を認めたほうがどれだけ楽だろうか。私はそんな風にも思えてしまうのです。それは決して「開き直り」ではなく、いかに人間というものは心かたくなにして生きてしまう存在なのだろうかという痛感そのものなのです。
この痛感こそ私たちの痛みなのです。苦痛を抱えながらも、その苦痛から逃れたくても、それが自分自身の心から取って離さない自分自身の姿なのです。そんな自分自身がどうして、神に向かって和解を申し出ることができるのでしょうか。どんなに美辞麗句を並べて神を賛美し、威勢の良い祈りの言葉を立て並べても、それは実に空しいものとなるのです。
だからこそ、和解を差し伸べて下さった神がおられたという事実が大切なのだと。私たちに犠牲のいけにえを差し出してくださった神が、私たちにできない歩み寄りに先んじて自ら私たちの前に進み出てくださったのです。何も悪くない神がです。私たちの痛感のすべてを十字架に引っさげたイエスが、私たちの前に歩み寄りのきっかけを与えてくださったのです。
それは平和のためです。平和のために他者を傷つけるのではなく、自ら傷つけた実にクレイジーな驚きが私たちに迫ってくるのです。この圧倒された神の思いに、私は今何をもって応えることができるのでしょうか。神に私自身の頑迷さと、その責任すら負うことのできないみじめな姿をこの時にこそさらけ出したいのです。すでに和解の言葉を携えて私たちと平和のうちに生きようとされておられる神がおられるのですから。
そのことを心から望みつつ、今日の一日も生きることができますように。お祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿