15/04/2025

2025.4.15(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章9節
知恵ある者たちは
主の言葉を退けたのだ。
彼らに何の知恵があろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章20節
知恵ある者はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節36日目を迎えました。そして受難週3日目の朝を迎えました。
今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
知恵とは何か、知識とは何か。これが今日の聖書の言葉を通して私が受け止めたいと思ったテーマです。そして、私がこれらの聖句に触れるたびに、私の痛みとなっているひとつの出来事を思い出すのです。
 
私がかつて所属していたキリスト教系の団体は、高等教育(つまり大学教育)を否定しています。理由はふたつあります。ひとつは世界の終末が近づいているなかにあって、学ぶことに時間を割くべきなのか、そんなことに時間を使うくらいならば、伝道活動にいそしめという理由です。もうひとつの理由は、今日の新約聖書の言葉にもありますように、世の知恵を神は愚かなものとされているという理由です。ここで言う「世の知恵」とは、神を神としない高等教育のことなのだとその団体は主張し、これが聖書の教えなのだと私はかつて教えられました。
 
高校を卒業してからこの春で30年を迎えました。あの頃をことを思い出すと、胸がぎゅっと締め付けられるような感覚になることがあります。その時のことを恨みがましく思っているわけでは決してありません。あの経験があったからこそ、今の幸いがあるのだと思っています。そういう意味では痛みも感謝への重要なスパイスとなっているのだなと感じさせられるのです。
 
私はこの世の知恵というものは、何かを裁断してすっぱりと分けられるものではないと自らの経験を通して感じています。この世界に存在するあらゆる知恵や知識というものは、すべて「世の知恵」なのだと私は思っています。そのうえで大切なことは、それらの知恵を通して何を学ぶか、ということにあるのだと私は受け止めたいのです。
 
例えば、無神論というひとつの考え方を通して、私たちは神の存在というものを知ることができるのではないでしょうか。無神論を学んだからと言って、その学問をどのように受け止め、受け入れるかは学んだもの自身の問題なのです。前述のその団体は、そういった学びには私たちを神から引き離そうとする悪魔の影響があるのだということを主張します。しかし、だからと言って、それを全否定し、その影響から自分自身を100%引き離そうとすることなど、土台無理な話なのです。
 
だからこそ、この世の中にあるあらゆる知恵というものは、私たちは積極的に知るべきなのだと思うのです。大切なのは、知ることを通して、そのことが神がおられる、神が私たちの生きる毎日にどのようなことを教えようとしているのかということをじっくりと黙想することによって、神とともに生きる幸いというものを見い出していくのであれば、無駄な知恵など何ひとつないのだと私は受け止めたいのです。
 
今日のふたつの聖句で言われている「世の知恵」とは、神との関わりを考慮することなく自分自身の欲求に従って、我田引水的にその知恵を用いようとするときに、それが世の知恵という言葉が言わんとしていることになるのでしょう。そんなことを想いつつ、今日も神がご自分の言葉を通して、私たちに幸いを与えてくださいますように。心からお祈りします。 

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