くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編50編16~17節
悪しき者に神は言われる。
「何のために、あなたは私の掟を数え上げ
私の契約を口にするのか。
あなたは私の諭しを憎み
私の言葉をないがしろにする。」
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章21節
私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。今週もなかばを迎えました。そして、聖霊降臨の出来事を祝うペンテコステまであと3日となりました。時が経つのは本当に早いものです。神に与えられた今日の一日を大切にしつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に今日も聴きたいと思います。
今日のふたつの聖句を貫くテーマは「言行不一致」であると私は受け止めました。言葉では神をたたえ、あがめ、信仰しているという「私の思い込み」はないだろうか。そのことに眼を止めて自分の心のうちにあるものを精査することの大切さが、これらの聖句で言わんとされていることだと思ったのです。
自分自身を見つめる作業というのは、簡単なようでとても難しいものであると私は思っています。いつの間にかに自分の思い込みによって本質から乖離してしまっていることになかなか気づけないということが、私もしばしばあると感じさせられます。
私は「ジョハリの窓」というものを思い出しました。アメリカ・サンフランシスコ大学で心理学を講じていたふたりの心理学者が1950年代に提唱したものですが、人間にはそれぞれ「4つの窓」があると言われていて、
①自他ともに認める窓(解放の窓)
②自分は気付いていないが他者には気づかれている窓(盲点の窓)
③他者には気づかれていないが自分では気づいている窓(秘密の窓)
④自他ともに気づいていない窓(未知の窓)
の4つであり、自分が何者かに気付き、その気付いたものによって自己を開示することでより良いコミュニケーションを展開することができるといった考え方です。つまり、左の図で言えば、①を広げていくことで②③④が狭まっていけば、そこにあるのは健全なコミュニケーションのかたちであると言えるわけです。
私はこのジョハリの窓における「私と他者」を、「私と神の関係」に置き換えて考えてみたいと思いました。究極的には神と私の関係には④の「未知の窓」は存在しません。神はすべてをご存知だからです。今日の聖句における状態は②の「盲点の窓」の側面が強い時に、そのような状態が起きるのかなと思いました。自分で知っているつもりでも実は知らない、気づいていない状態です。しかし、絶対的な他者である神にはすべてを知られているというのです。
だからこそ、神との対峙によって自分自身を見つめていく作業というものが本当に大切になっていくのだということをあらためて思わされます。そのために、神が私たちに与えてくださったもの。それが神の言葉と聖霊の助けに他ならないということなのだと私は思います。たったひと言の聖書の言葉で良いのです。その言葉を前にして神と対話をし、思い込みを貫くのではなく、あくまで自分自身が何者かというものを神に気付かせていただく営みというものを、聖霊の助けを得ながら歩むところにこそ、神の平和というものが生み出されていくのだと信じたいのです。
神の御心を行う者こそ、天の国にふさわしい。今日の新約聖書に示された主イエスの言葉です。神の価値観が何であるかを知り、それを自分自身のいのちに浸みこませていく作業とは、決して動的なものであるとは限らないと私は思います。地道で地味な営みにも、じっくりと私たちの心に浸透する大切なプロセスであることを思いに留めつつ、今日の一日を主の助けによって生きていきたいと願わされました。
皆さんの一日にも、すべてをご存知である主が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。
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