22/04/2025

2025.4.22(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章6節
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい
それぞれ自らの道に向かって行った。
その私たちすべての過ちを
主は彼に負わせられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章24節
キリストは自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。救い主イエスの復活後2日目の朝を迎えました。イースターの時から、私たちは救い主が復活されたことの意味を考える期節を過ごします。今年2025年は主の昇天日が5月29日、その10日後の6月8日に聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えます。この50日間における復活のイエスと弟子たちの物語に、御言葉を通して聴くことができますようにと祈りつつ、今日ローズンゲンに示されたふたつの御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖句、特に旧約聖書の言葉を通して私が受け止めたいと思ったのは「自由の誤用」というものでした。私たちにとって自由とはいったい何だろうかということをあらためて考えさせられたのです。
 
今から30年以上前、私が高校生のときに「自由には責任がともなう」という言葉があることを知りました。自由を愛し、それを謳歌する以上、その自由によって生じた果実というものを負う責任が自分自身に問われているのだ。そういうことを教わったのです。この言葉を聞いた時には気づかなかったのですが、時が過ぎるとともに、それは聖書が私たちに伝えようとしている事と相通じるのだと思わされたのです。
 
自由の結果を処理するだけの責任が、私たち人間に取ることができるのだろうか。残念ながら、自由をそれぞれの思いで味わうことができたとしても、責任を取ることができなかったというのが人間の歴史であると私は思っています。「自分なり」の自由を味わう代償として、自他ともに多くの犠牲が生じました。この犠牲に対して誰も責任を取ることができないのです。自分も含めて、自由の誤用というのはまさに責任を取ることのできない姿そのものを指すのだと思うのです。
 
では何か。私たちが負うことのできない責任を一手に負ってくださった方がおられた。それが、今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書53章に描かれている「苦難の僕」であり、今日の新約聖書の言葉である第一ペトロ書に描かれたキリスト・イエスその御方なのだと。私たちが無責任に負うことのできなかったすべてを負われたイエス・キリストによって、私たちは再生への道、癒しの道が与えられました。それが、イースターの喜びとともに始まったことをあらためて、今日の聖句を通して感じ、また受け止めることができました。
 
今日もキリストの復活のいのちによって私たちが活かされる。そんな神の正しさに込められた幸いを胸に刻みながら、神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿