くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記下19章14節
ヒゼキヤはこの手紙を読むと、主の神殿に上った。ヒゼキヤはそれを主の前に広げた。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書9章28節
イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。そして、救い主の御復活をお祝いするイースターの時を私たちは迎えることができました。苦しみが苦しみのままでは終わらないことを、イエスは死者のなかから復活された命をもって、私たちに示してくださいました。死という私たちの限界は、神にとっては決して限界などではなく、私たちに再生の希望をもって永遠というものの意味を知らせてくださいました。
私たちの限界を超えられる神。これがローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私たちに伝えられたメッセージであると私は受け止めました。今日の旧約聖書の言葉は、前後の言葉も含めて読まないと分かりにくいかもしれません。もしお時間があればお読みくだされば幸いです。南イスラエル(ユダ)王国、ヒゼキヤ王の時代のことです。決して強大とは言えないこの国に、北の国アッシリアからの攻撃が及ぼうとしていました。
周りは言います。神なんかに頼っている場合かと。だからこそ、ヒゼキヤ王はその忠告がしたためられた手紙をどうしたかというと、神殿へ携えて神の御前で開いたのでした。自分自身で政治的な判断をする際に、必ず神の御前でヒゼキヤ王はすべての限界を超えられる神の御心に聴こうとした。ここにヒゼキヤ王が後々名君とうたわれたゆえんがあります。神はヒゼキヤ王の願いに応えられました。アッシリア軍は都エルサレムに攻め入る前に壊滅したのでした。とても勝ち目のない戦いでも、それが神にとって本当に大切なことならば、私たち人間が手をくださなくてもそのようになるのです。
今日の新約聖書の言葉は、イエスが3人の弟子たちを連れて祈るために山に登ったという箇所です。この後イエスは弟子たちに幻を見せて、まばゆく輝くなかでモーセ、エリヤとともに語り合う、そこに神の宣言がなされるという、いわゆる「主の変容」と呼ばれるシーンが訪れます。しかし、このシーンはその前段こそが大切なのであって、その前段とは主イエスによる受難と復活の予告でした。多くの者のあざけりを受けて殺されることになるが、三日の後に復活するという、イエスによる宣言です。
いわゆる「受難予告」と呼ばれるイエスの言葉を、弟子たちはなかなか受け入れることができませんでした。そんなことがあるわけないと最後の最後まで否定し続けました。イエスが復活された朝でさえも、墓からイエスの身体が取り去られたと思い、そこに復活の出来事などがあったとにわかに信じがたい弟子たちの姿がありました。しかし、イエスは確かに復活されたのです!死という私たちの限界を超越される神が、イエスの復活というものを私たちの目前に見せてくださることによって、限界を超えられる神が確かに私たちとともにおられることを明らかにしたのでした。
この神が、今日私たちをイースターの喜びへと導いてくださいます。世界中で行われるイースターの祝祭に、喜びと祝福があふれんばかりに注がれますように。お祈りします。
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