06/07/2025

2025.7.6(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章7節
悪しき者はその道を捨て
不正な者は自らの思いを捨てよ。
主に立ち帰れ
そうすれば主は
寛大に赦してくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章20節
神の和解を受け入れなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日からローズンゲン黙想を再開します。御言葉を真ん中にして皆さんと交流できることを心より感謝しつつ、今後ともよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンによって選ばれたふたつの聖句のうち、新約聖書である第二コリント書の言葉は、和解という言葉の意味について、あらためて考えさせられるものとなりました。私がこれまで使用していた聖書は『聖書 新共同訳』ですが、それによると、今日の当該聖句についてはこのように訳されています。
 
新共同訳聖書  神と和解させていただきなさい。
 
しかし、この黙想で使用している聖書『聖書 聖書協会共同訳』、また新共同訳聖書よりも以前に翻訳された『聖書 口語訳』には、この聖句を以下のように翻訳しています。
 
聖書協会共同訳聖書  神の和解を受け入れなさい。
口語訳聖書      神の和解を受けなさい。
 
これらの違いは私たちにどのような印象を与えるでしょうか。和解する対象が神と私たち人間であることは分かるのですが、この関係が決してフラットなものではないことに気付かされます。つまり、和解しようとその手を差し伸べたのは私たち人間ではなく神の側にあったということです。
 
では、神は私たちに対して何か悪いことをしたのでしょうか。少なくとも聖書に示されている歴史は、私たち人間が「神無しでも生きていける」という願望のもとに、神から離れ、隔絶し、自分たちだけの世界をつくりあげようと試行錯誤し続けてきたものであることが分かります。しかし、それら人間による努力は究極的には徒労を得るものとなっている。これが現実なのです。
 
現に私たち人間のあいだですら、和解することのできない多くの差しさわりがあることを、私たち自身がよく知っているのではないでしょうか。誰が正しいか正しくないか、自分の正しさを主張するあまり、他人を容赦なく傷つけ自分を守ろうとしていないでしょうか。意識的無意志的にかかわらず、私たちはこのような生活をすることによって、和解という道を歩むことを徹底的に嫌ってしまうのです。ならば、どうして今日の聖句のように神と和解することができるのでしょうか。
 
しかし、そんな人間に対して神は、みずから和解の道を提示し、私たちに臨んでくださるというのです。顔に泥を塗ってそこから離れて行ったのは私たち人間であるにもかかわらずです。そのために、最愛の御子の命を私たちのために惜しみなく与え、そのうえ本来私たちから和解を申し出るべきところを、神の側から和解を申し出られた。まさにあっぺとっぺなのです。
 
その神が自ら差し出された和解を、イエス・キリストによる命の犠牲と復活の出来事をもって私たちが受け入れることがゆるされている。この和解を受け入れなさいということなのです。自分が悪くないのにその道を提示してくださる神が、今日も私たちとともにおられる。これこそ、私たちが安心して神に立ち返ることのできる根拠なのです。私たちの心のかたくなさをすべてご存知なうえで、神が私たちに臨んでくださる。ここにこそ私たちが日々を生きる慰めとなるのです。
 
今日も私たちに神の言葉が与えられていることに感謝しつつ、私たちもまた日々の出来事のなかで起きる和解の出来事に前向きな思いを神が与えてくださいますように。そのことを祈りつつ、一日を歩むことができますように。そして、私たちのあいだに神の和解を喜ぶことができますように。皆さんの、そして私自身の平安を心からお祈りします。

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