16/04/2025

2025.4.16(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編103編15~17節
人の日々は草のよう。
野の花のように咲くのみ。
風がそこを吹き抜ければ、消えうせ
生えていた場所も、もはやそれを知らない。
しかし、主の慈しみはとこしえまで。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一15章53節
この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
四旬節37日目を迎えました。そして受難週4日目の朝を迎えました。
救い主イエスが十字架上で苦しみの極みを味わわれた。しかし、その死を通して神である主ヤハウェが私たちに「永遠」を示してくださるのだ。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージはこのようなものでした。
 
草草や野の花はやがて枯れ失せてしまう。聖書の書かれた舞台であるイスラエルは、夏の日照りゆえに草花から水気が奪われてしまうという光景を見ることができるのだそうです。命の終わりというものを実感せずにはいられない。そのようななかで、今日の詩編の言葉が歌われたことを想わされます。私たちの住む日本では、冬の寒い季節に木々が枯れてしまう感覚と似ているのかもしれません。夏の暑さも冬の寒さも、私たちひとりひとりには本当にこたえるものなのです。
 
しかし、命の終わりが終わりのままで済むことは決してないのだ。歌い手は永遠に続く「主の慈しみ」に注目します。神がこの地を愛され、その地に生きる私たちをいつくしんでくださる。私たちが生きるためにです。しかし、私たちは誰もが「死」に向かうなかで、そのような状態を避けたいと願いつつも、まるで死を思わせるような断絶を好戦的に自らの心に抱いていないだろうか。そんなことを想わされるのです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、私たちは希望を抱いて歩むことよりも、目の前にある苦しみに愛着を抱いてしまう存在なのかもしれません。その愛着から逃れられない自分自身があるのです。苦しみの渦中に自らを置いて、そのなかにただずむ悲劇の主人公に酔いしれ、憐れんでいないだろうか。分かってはいるけれど、そういう状況から抜け出せない、いや抜け出したくない自分自身というものがないだろうかと。
 
しかし、それは私たち人間に対する神の願いではないのだと。イエスの死が死のままでは終わらせず、その命は復活へと向かわせたのは何を隠そう私たちの神なのですから。そのために、イエスが究極的に苦しみを自分のところで終わらせてくださったという事実を、私たちは自ら負う苦しみのなかで、希望をともないながらイエスを見つめていきたいのです。こうして、あらゆる意味での「死」を受容しつつも開き直ることなく、復活への希望に目を向けていきたい。そんなことをあらためて受け止めることができました。
 
ふさぎこみたくなるような現実がある。それを揶揄する世界のなかにあってこそ、そのようなところから視点を変えるだけで、神である主が注いでくださるいつくしみを見ることができるのならば、何と幸せなことだろうか。そんなことを希望の糧として、今日も歩むことができますようにと祈ります。受難週の中日、皆さんの一日に神の守りと平安がありますように。お祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿