詩編141編8節
主よ、わが主よ、あなたに目を向け
あなたのもとに逃れます。
私の魂を捨て置かないでください。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章19節イエスは言われる:私が生きているので、あなたがたも生きることになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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イエスが「私が生きているので、あなたがたも生きることになる」と、12人の弟子たちに対して言われたのは、これから弟子たちのもとを去り、十字架につけられようとしていた時でした。
言わば、死に向かうイエスが「私が生きている」と、弟子たちに告げ、私が生きているがゆえに、あなたがたも生きるのだと、弟子たちに語られました。この言葉を、弟子たちはどのような聞いたのだろうか。そんなことを思わされます。
今日の新約聖書は、このイエスの言葉に先立って、「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。」というひと言があります。十字架にかけられて殺されるイエスの姿を、誰も見ることはできなくなります。しかし、弟子たちは私イエスを見ることができると、イエスは言われます。
弟子たちは、どのようにイエスを見ることができるのか。イエスは、弟子たちを守り、慰め、励ますために、「弁護者」という名の「真理の霊」を、弟子たちのもとに遣わし、ともにいるようにしてくださることを約束されます(ヨハ14:16~17)。
これこそ、聖霊なる神に他なりません。聖霊なる神の助けが、弟子たちにイエスの言葉と行いを思い起こさせ、イエスの心で生きることができるよう、導いてくださるのだと。だから、イエスはいつまでも弟子たちの心のなかで、思いや行いを通して、生きていてくださるというのです。イエスを見るとはそういうことなのだと。
本日の旧約聖書のことばは、イスラエルの王ダビデによって歌われた一節ですが、決して孤独にならないためにも、ダビデが神を必死に見ようとする思いが、その歌に表れています。神が私を守ってくださる。だから、私は神に目を向けるのだと。
そのダビデの言葉に呼応するかのように、今日のイエスの言葉が、私たち一人ひとりにも響いているような気がしてなりません。今日の新約聖書の言葉に先立って、イエスは弟子たちに告げられます。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)。
私たちを孤独にしない神がおられる。このことを希望の糧として、今日の一日を歩みたいと願わされました。孤独のないところには、神の愛が通い合う。神の愛が通い合うところには、神の平和がある。平和が脅かされそうな世の中だからこそ、このことを心から祈りたいと願わされました。
皆さんの一日にも、神が与えてくださる平和が、ともに、豊かにありますように。お祈りいたします。
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